こんにちは、ヒョーかるです。私は福祉業界で適応障害や休職、復職を経験して、これは飄々と軽々と生きていけるんじゃないか?と学んだことや思ったことをコツコツお届けしたいと思います。
今回はネガティヴな発言や態度、出来事を目の当たりにすると傷つくけれど、その状態を選択するのは自分で決められるなと気づいた話をさせていただきたいと思います。
傷ついたなと思った場面
昨年、複数の人にお会いする機会があり、私はどんな人たちと交流できるのか当日楽しみにしていました。その中で「あ、この人はきっと私の何かが不快に思ったんだろうな」とあからさまに思う出来事がありました。
久しぶりの感覚だったのですが、やっぱりあからさまに伝わると傷つくなと感じました。傷ついたなと正直に認めることは大事だと思いました。以前は「そんなこと感じちゃダメなんだ!きっと相手も何かあったんだ…」と自分の気持ちを否定するパターンでした.
だんだんそのパターンは減ってきました。きっとこのおかげです
そして今回、もう第2ステップとして気づいたことがありました。
傷ついた事実は事実
自分がきっと誰かに対して不快に思われて、私のことはいいねと思わなかったのは事実。不快にさせてしまったこと、それも事実。自分が相手の反応に対してきっと嫌われているんだろうな、と傷ついたのも事実。
でも、傷ついている状態を選択したのは自分なんですよね。その状態に今落ちているんだな、その状態に落ち着いているんだなと気がついたことが今回の発見でした。
この落ち着いている、という表現にしたのは、楽な状態にハマったなとポジションを感じるためです。傷ついた状態に落ち着いているという感覚は自分が一番楽なんです。自分のせい、というより相手のせいとできるので。
傷ついた自分を選択していた
4年前に落ち着いている状態に近い経験をしました。当時結婚生活をしていたパートナーに対しても傷つく状態を選択していたんだと思います。
相手のために生活をしている状態が正直苦しくって「私、これだけ働いているんだから、あなたも何かを頑張ってよ」と伝えても相手に届かなかったため、言葉ではない方法で傷ついているという選択をしていたんだろうなと思い出しました。
それを相手に言葉で伝えられればよかったのですが、相手も弱っている状態だったので、「言葉にすることは控えよう、これを伝えたら負担になるだろうな」と、自分を犠牲にする思いやりをかけてしまいました。「私の気持ちは我慢すれば相手は快適に過ごせる」という思いが優先していました。辛い気持ち、自分が身を粉にして生活を支えていることは伝えられなかったのです。
その代わり、自分の気持ちを我慢することによって傷ついているという状態になる。状態を選択して、言葉ではない非言語の部分、表情・仕草・動き・声色、そんなところで相手に伝えることばかりしていました。というよりそれしかできなかった、それが精一杯だった。それを思い出しました。
事実をどう選択するかは私が決められる
確かに傷ついている、辛くて大変だというのは事実、そこは認めてあげていいんだけれども、その状態をずーーーっと選択するかどうか。別の捉え方をして過ごしていくかは、これは自分の選択の責任なんですよ。
今回、私の何かが不快にさせたんだなということがあからさまに見えた、わかった、私にも伝わった。「傷ついたな、そっか…ダメだったか…失敗したな」という気持ちはもちました。
この気持ちをいつまでもずっと持っていくのかというのは、私がどうするかで決めることなんだろうなと今回気づきました。
私は何をしたかったんだっけ?
また「私は今回、何をしたくて行ったのかな?」ということを、気持ちが落ち込んでいるときに思い出しました。
どんな人がいるのか楽しみに向かった場所だったので、その人たちの価値観やお話し、人柄を知りたいというのが目的でした。
「それができたんだったら十分じゃないか、それが私の真の目的だったんだ。傷つきに行ったわけじゃないんだぞ」っていうのを思い返すことで、「あ、そうだな」と立ち戻ることが出来ました。
この記事が何かのお役に立てたら幸いです。また次の記事でお会いしましょう。
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