こんにちは、ヒョーかるです。私は福祉業界で適応障害や休職、復職を経験しています。飄々と軽々と過ごせるような適応障害との暮らし方や気づきをお届けします。
今回は、復職支援(リワーク)で教えてもらった「中年の危機」を知って、私が考えていることを書いていきたいと思います。
クォーターライフクライシス(20代後半〜30代の危機)、ミッドライフ・クライシス(早いと30代〜50代の危機)、ほにゃららクライシス、皆さんは聞いたことあるでしょうか?
私は今のところ、10代~20代、20代~30代と年代が変わる頃に危機があったなと振り返っています。そのため、次の30代~40代の危機、ここに向けて対策したい思いと、何かが起こるんだろうという怖さがあります。
10代~20代の移り変わり
大学3年時、19歳の頃。学部の先輩たちが「一番辛い」と口にしていた必須科目がありました。英論文をひたすら訳して、読み解く授業でした。4年時の卒業論文で使うことが目的でした。専攻していたコースは、アメリカで生まれたものであったため、日本語の論文は少なく、英語の論文が充実していました。必須科目の授業は、1つ論文が終われば、また新しい論文の読み解き課題が出ます。1つの論文を数名で分けたり、ペアで分けて翻訳していくものもありました。
私は、終えても終えても終わらない、繰り返される英論文の課題に参ってしまったんだと今は思います。
加えて、OBが開業した臨床現場を実習とし、経験や実習時間の+αとして、学部の有志で参加していました。片道2時間はかかる現場で、OBの臨床現場サポートや、臨床映像を文字起こしする手伝いでした。
20時〜21時過ぎに現場を離れる日もあり、他の同期が起こした内容をOBが見て「使えないな」とこぼしていたことが、強烈に私の中で残ってしまいました。
現場以外にも、臨床現場を利用する障害児の方を送迎(移動支援のアルバイト)することも当時はしていました(現在は福祉サービスを選択する偏りになってしまうので、いけないことです)。加えて、移動支援で必要な研修も私たちが行ってOBに報告することになりました。
思えば、臨床現場の経験積み+移動支援の送迎+移動支援の研修とキャパが超えた内容を引き受けていたと思います。これは私だけでなく、5~6名で行っていたのですが、無理がきてやめた人、危険を感じてやめた人、しがみつくように上手く乗り切っていた人、割り切って取り組んでいた人、といました。
私は辛い必須科目と学業以外の+αをこなそうとしてしまいました(それと当時の恋人との関係)。秋から冬に移り変わる時期でした。就活時期と言われる頃に大学へ行けなくなり、数ヶ月休学することになりました。
初めて抱いた「消えたいな」という気持ち
休学中、記憶にあるのは4つの出来事でした。
1つ目は自宅で横になっていると、「あの子大丈夫かね。精神おかしくなっちゃったんじゃないの」と両親の小声が聞こえてきました。
「あぁ、私はダメな人間になってしまったんだ」と思っていたこと。そして、両親はそんなことは言っておらず、自分が作り出していた幻聴であったこと。
2つ目は、別の日の昼下がり。横になっていると自分の心臓の音と、呼吸音が妙に大きく聞こえました。「苦しい、心臓の音がうるさい、息する音がしんどい、音がうるさい、この音を止めたい」と頭の中で感じたこと。
3つ目は、入浴中にシャワーを浴びながら、流れる水をみて「シャワーとともに自分も溶けてなくなりたいな」と心に湧いたこと。外の落ち葉を見て「私も落ち葉みたいにふわっとどこかに行きたいな、人間じゃなくてモノになりたいな」と考えていました。
命を落としたいというより、休学してしまった私の存在が苦しいので消えてなくなりたいな、そんな願望をふと抱いていました。実際には行動にしていませんがね。こんな思いを抱くのは初めてでした。
4つ目は、大学のスクールカウンセラーと魔の授業の講師のもとへ面談に行った時でした。講師と面談をして教室の廊下に出ると、他の生徒の元気な声が聞こえました。その瞬間、目の前と頭の中がぐらぐらして「あぁ、ここにいられない」と動けなくなりました。「大丈夫?」と講師に声をかけられましたが、大丈夫じゃありませんでした。他の生徒は順調なのに、私は学校へ行けていない、ダメな自分だからここには居られない、と自分を責めていました。
腹落ちした言葉
大学のスクールカウンセラーさんの言葉で肩の荷が降りました。
「自分は壊れちゃったと思っているのかもしれませんね」
確かにいつもの私じゃない。「壊れちゃった、なんだかしっくりくるな」とホッとしたんです。
スクールカウンセラーさんの勧めで、住まいから近い心療内科へ、人生で初めて行くことになりました。この病院でも印象強く残っていますが、それはまた別の機会に。薬を処方されて服薬はしていましたが、種類は忘れてしまいました。
結局この頃は、負担であったOBの手伝いは辞めました。履修できなかった必須科目は翌年に履修し直し、無事に単位を取ることができました。
特にこの頃、診断はありませんでしたが、適応障害になった時よりも抑うつ状態が重かったです。幸い、成人式の時期には少しずつ上り調子になれました。親友たちと恩師を交えての同窓会幹事をしていたことが大きな支えでした。楽しみの支えですね、この時は19~20歳になる時期でした。
20代~30代の移り変わり
ブログでも多くをお伝えしている、適応障害を患った時期です。仕事の繰り返されるストレスと家庭環境で、初めて診断をもらいました。心療内科は2回目の経験で、30歳~31歳になる時期でした。
リワークで「中年の危機」を知る
現在は「ミッドライフ・クライシス」とも呼びます。精神科医・精神分析家の小此木啓吾さんが提唱した「上昇停止症候群」についても、こちらで書いています。
この知識を知って、2つ気づきがありました。
1つ目は、当時結婚していたパートナーはこのミッドライフ・クライシスに差し掛かっていました。今までやってきた仕事の仕方で乗り越えられると思い、同じ方法でやろうとして、上手くいかない。切り替えができなかったんです。
2つ目は、私の傾向を見ると、次の年代の切り替えでも何かあるかもしれない、自分の心の予防になると思えたことです。女性と男性でこのミッドライフ・クライシスの時期は異なるそうです。
こちらでも書いています。
最後に
年代の切り替えに向けても、色々模索していますが、何が正解かわかりません。
不安のメカニズムを知ってから考えると、目に見えないから不安であって、あまりに構えすぎると動けなくもなるため、どうバランスを取っていこうかな、と考えている段階です。きっと、何かあるかもしれないし、何か見つかるかもしれない、何もないかもしれない、そのくらいの構え方でいられるよう、粛々と過ごしていきたいです。
この記事が、自分自身を認められるきっかけのお役に立てたら幸いです。また次の記事でお会いしましょう。
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